FC2ブログ

Category

2021.09

 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  

09/08のツイートまとめ 

boukenkyuu

https://t.co/MGnIKgLU8P >勢州の 九鬼右馬允 に仰せ付けられ、大船 6艘作り立て、ならびに、 瀧川左近、大船 1艘 - これは白舟にこしらえ -、順風見計らい、寅 6月26日、熊野浦へ押し出だし、大坂表へ乗り回し侯のところ、
09-08 13:53

滝川一益の白船と言うのは  https://t.co/HVlXcfPSv5 塗装の無い船と言う事なのかだが 九鬼の大船は塗装が有るか 防火用の鉄甲や銅板が有るので 白くは無かったと言う事なのかだが
09-08 13:54

https://t.co/LWQ2pNSXly >初めは、九鬼、支え合い侯事、成りがたく見え侯。6艘の大船に大鉄砲 余多これあり。敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを大鉄砲を以て打ち崩し侯へば、これに恐れて、なかなか寄り付かず、数 100艘を木津浦へ追い上せ、
09-08 14:05

第二次木津川口の戦いでは 防火対策が無いからか 滝川一益の白船は参加していないと言う事なのかだが 九鬼の大船も大将船を狙撃したとすると フランキ砲では無く 前装式の精度の有る砲が搭載されていた可能性も有るのかだが
09-08 14:09

https://t.co/Wr8hMJBz7X >なお、毛利水軍は、この戦いには敗れたものの、兵糧については石山本願寺に無事に搬入したという見方もある。   九鬼の大船も機動性が無いからか 兵糧の搬入迄は阻止出来なかったと言う事なのかだが
09-08 14:12

https://t.co/aEoCglOH48 >[史料2] 『耶蘇会士日本通信』パードレ・オルガンチノの都より發したる書簡  >船には大砲三門を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず、何となれば、豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲を除きては、日本国中他に砲なきこと、我らの確知する所なればなり、
09-08 14:20

>予は行きてこの大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大なる長銃を備へたり。   九鬼の大船の3門の砲は日本製で フランキのコピーでは無い前装式の可能性も有るのかだが
09-08 14:21

https://t.co/2Q9ONvJoVc >どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)村の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。
09-08 14:23

こうした物も 芝辻砲的なサイズの物は 未だ無い可能性も有るのかだが
09-08 14:24

https://t.co/cqAzBJJrL4 1571年に国友の200匁筒が作成されたと有るが 九鬼の大船の砲はこれよりは大きな可能性も有るのかだが
09-08 14:30

https://t.co/lzJcc60NNu >毛利元就が家臣の堀立壱岐守直正に宛てた書状には高屋小三郎という者を「大鉄砲放」として遣わしていたという記事がある。年次は不明だが、元就の没年から推察して、永禄年間(1558〜1569)、
09-08 14:34

特に同四年(1561)、大友方と関門海峡を挟んで激突した門司城合戦の頃ではないかと思われる。 >大友方はこの合戦でポルトガルの軍船の加勢を受けて門司城を攻撃している。 >そのため、毛利方も大型火器の必要性を痛感して、直正に大鉄砲を与えたのではないだろうか。
09-08 14:34

ポルトガル的な大型の砲を 毛利が1560年代に制作していた可能性迄は有るのかどうかだが
09-08 14:35

>『国友鉄砲記』によれば、織田信長は近江長浜城主の木下秀吉に「何とぞ大にてたとひ大守櫓に打ち掛けても忽ち忽ち覆す用法」がないかと命じたので、秀吉は国友村の鉄砲鍛冶である藤久左衛門・兵衛四郎・善兵衛・助太夫に指示して大筒を作らせた。彼らは丹精を尽くして、
09-08 14:36

>「玉目二百目・長九尺の鉄砲二丁」を張り立てたという。   此れは全長270cm等と言うから 手持ちの大砲では無いと言う事だろうか 信長軍はこのサイズの物を井楼に乗せて 櫓や塀を射撃していたのかだが 1573年以降の物の可能性も有るのかだが
09-08 14:40

>「此外製州の舟大船数百艘乗入れ、会場所なく、諸手大鳥居・しのはせ(篠橋))取り寄り、大鉄砲を持って堀・櫓打ち崩し、 >艦載の大鉄砲が合戦の帰趨を決するまでになっていることが判明する。おそらく信長は、三桁の大鉄砲を装備させていたのではないだろうか。
09-08 14:43

長島を攻めた数百の大船に 皆200匁筒等が有ったのかどうかだが
09-08 14:44

>なお、この海戦から六年後の天正十二年(1584)三月、羽柴秀吉が紀州根来衆を攻めたとき、旗下の小西行長が七十艘の軍船を率いて海上から攻め寄せた。行長の旗艦の様子は次のようだった。「彼は我がガリアン船に似た船に乗り、多数のモスケット銃及び豊後の王が信長に送った大砲一門を載せ、
09-08 14:58

>敵の遭遇する和泉国の海岸に上陸し、敵兵の多数を殺した」(「イエズス会士日本年俸」)   1584年の小西行長の軍船だと 砲は旗艦以外は無いか 日本製の物が装備されていたと言う事なのかだが
09-08 14:59

>オルガンティーノの書簡には「四年以来戦争をなせる大阪河口に之を置き、援兵または糧食を搭載せる船の入港を阻止せんがため」とあって、鉄張船六艘は木津川河口を塞ぐ目的で停泊していた。
09-08 15:05

>其の実効を挙げるためには六艘が横並びの隊形をとる必要があるため、舷側に大砲を置けば左右に展開している僚船を誤射する恐れがあるからである。
09-08 15:07

船を斜線陣的に配置すれば 砲を横に配置しても味方への射撃は無いと言う事かも知れぬが 前方の敵指揮船に砲撃を集中する事を考えた可能性も有るのかだが
09-08 15:07

https://t.co/jQHKHmEi2Y >天正7年(1579年)秀吉は播州三木城を攻撃しましたが、この時一貫目玉が使用された形跡があり、三木城跡から一貫目筒が発掘され現存しているそうです。これは国友で造られたと思われます。
09-08 15:09

https://t.co/cqAzBJJrL4 大友のフランキは1580年以前は信長に渡されていないと言うなら 三木城の一貫目筒は日本製の可能性も有るだろうが 青銅製の可能性も有るのかだが これと同サイズの物が 九鬼の大船には有ったのかどうかだが
09-08 15:15

https://t.co/LeW5y6OIxP >1578年毛利水軍を撃破した信長の艦船に据えられた大筒は、国友製とされ、また、1579年、秀吉の三木城攻めでは国友の「一貫目筒」が使われているとのこと。何れも国友製としても 青銅製の可能性も有るのかだが
09-08 15:18

https://t.co/lzJcc60NNu >「多門院日記」天正八年(1580)閏三月十七日条に次のような記述がある。「奈良中の釣鐘、筒井より取られおわんぬ、大門(大乗院門跡)にも二つこれあり、今日取りおわんぬ、国中諸寺同前と云々、クツイカ峰にてタタラを立て、鉄砲を鋳さすると云々」
09-08 15:51

1580年には大友の献上したフランキの影響か 信長も青銅砲を作成していると言う事なのかだが これ以前の作成は無いのかどうかだが
09-08 15:54

RT @kerpanen: 「止戈枢要」にも、馬上で装填する時は銃床を左の鐙に載せろ、と書いてあります。日本でも馬上で銃を再装填していたんですね。 https://t.co/6t808elUUi
09-08 16:06

カラコール的な馬上での銃の装填は 立花宗茂の火車懸ならしているのかだが 清正の馬上筒の場合は 一発放ってから白兵戦をしていると言う事なのかだが
09-08 16:08

https://t.co/NzauqowqbA 清正の騎兵の場合馬上筒を放った後再装填はせず 槍で接近戦をしていると言う事なのかだが
09-08 16:15

https://t.co/hMD1NGiyaB >そして平山城を包囲する一揆方の有働兼元軍を騎馬鉄砲[注、騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせて「火車懸」の戦術を繰り出した]の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、
09-08 16:18

立花宗茂の火車懸は 城を包囲する兵をおびき出す為の物なのかだが 何回か馬上で装填はしつつ射撃していたのかだが
09-08 16:19

https://t.co/jmN2n5ZTaj >1:群書類聚第二十一編=「別所長治記」ー天正七年二月、秀吉に攻められたとき、長治軍の百五十騎が馬上にて鉄炮を一度に打ち、秀吉方百五六十人馬より打ち落ちる。図①   別所長治の騎馬鉄砲も 馬上での再装填はしていたのかどうかだが
09-08 16:27

https://t.co/P1hEOr9Oz8 >別所長治記…【近習の侍百五十騎、各返し合い、馬上に鉄砲を持ち、敵相五間六間に成る時、一度に打ちける程に秀吉方百五六十馬より打ち落とさる】   5-6間(9-10m)での射撃をした後退避して再装填はせず 白兵戦をした可能性も有るのだが
09-08 16:33

RT @kamaeatte: 近世城郭の枡形虎口について、射手が敵に身体前面を晒さないため、あるいは射手が甲冑の袖(射向けの袖)で身を守りやすいように枡形内の導線を右折れとするのが望ましいというような説明をたまに見るが、実際どうなのだろう。 https://t.co/WBXTV
09-08 19:59

RT @kamaeatte: 実際には左折れの枡形虎口も多く、右折れが主流だとか特別多いという印象も受けない。そもそも櫓門のような防弾構造の建物の中にいる射手が敵に身体前面を向けることをそこまで気にするだろうか。また射撃に専念する射手は射撃しやすいように甲冑を着こんだりしないの…
09-08 19:59

RT @HongMing_JPN: @kamaeatte 右折れの方が敵の槍持が内門と相対した時に、背中と門の対角の二方向が死角になる効果もあるのかなと想像しました。
09-08 19:59

RT @noitarepootra: 対包囲戦術としての鈎型陣形について拙稿作成しました。包囲攻撃を受けたとしてもそのインパクトを緩和し、耐久することができる方策です。概念的にはシンプルですが、これを組み合わせた逆襲戦術は非常に高度であるため、その前の基本として理解しておく…
09-08 20:01

恐らく馬上から銃を連発して 城を包囲する敵を挑発し後退した後 伏兵に誘引した立花宗茂の火車懸以外は 一発放ってから白兵戦をしていた可能性も有ると言う事なのかだが
09-08 21:25

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://boukenkyuusha.blog72.fc2.com/tb.php/11275-e3fd70aa