08/29のツイートまとめ
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boukenkyuu
☆調略☆面頬 検/武具・甲冑・兜・鎧部品 https://t.co/HZnuwe1Bmw 縅糸は 小桜革なのかだが 戦国期だと樫鳥縅は有るが 小桜縅は有るのかどうかだが
08-29 10:56鎖鎌 武具 鉄 https://t.co/0fILpqv4hZ #ヤフオク こうした位置に鎖が付く鎖鎌は 片手利用は基本的に無いと言う事なのかだが
08-29 11:17柄下端に鎖が付くタイプの物も 逆手に持てば片手で鎖は回せると言う事だろうか
08-29 11:20https://t.co/wMNlAr9OtZ 絹は吸水性が高いと有るから 絹の縅糸が水を吸った場合重量増加は多いのかだが 雑魚兵の鎧は革縅が多いから 其処迄の重量増は無いのかだが 装甲も薄いと言う事だろうか
08-29 12:07一方で騎士の綿入れも水を吸うのかだが 水は脇や腰部から 何処迄入るのかだが
08-29 12:08海戦用鎧だと革縅・革包の物が多いのかだが 戦国期だと早期に革の素懸縅に移行したのかだが
08-29 12:09腕先迄詰まる4重等のギャンべゾンと 縅糸とでは 前者の方が可也重いのかどうかだが
08-29 12:13冬だと騎馬武者・歩兵も綿入れを着ているだろうから これに水が入ると ギャンベゾン程では無いだろうが重量増とは成る訳だろうか
08-29 12:32https://t.co/qfwwY1RHLS >後鳥羽院の旗は、赤地の錦に金剛鈴([密教の法具の一])をたくさん結い付けて、不動明王・四天王を描かれていましたがその旗十流を、十人に与えました。私の家々の紋の旗差しに添えました。仰々しく見えました。
08-29 13:00https://t.co/GUdc4Oikrv 左の様な 鎌倉期の金剛鈴が 後鳥羽院の旗には多数付いていたと言う事なのかだが
08-29 13:04
https://t.co/wuyf23W1Wi >泰時が矢を取って見ると十四束二伏(普通の矢は十二束)でした。泰時はこの矢を見てたいそう笑って、「朝比奈(義秀)は強弓の者ではないな。矢束([矢の長さ])十二束に少々長いだけではないか。
08-29 13:1413束は兎も角 14束クラスだと 可成りの強弓用と言う事は無いのかだが
08-29 13:14https://t.co/Wc64GhHsMd >大妻兼澄は「主(茅野弥六)の命は明神に任せた。だが馬の命は頂こう」と切付([馬具の下鞍したぐら=鞍橋くらぼねの下に敷いて、馬の両脇に当てるもの。ふつう二枚重ねにして用いる。のうち、下に重ねるもの])の端を矢の羽が隠れるほど射ました。
08-29 13:19敵でも同じ一族だと 人を狙わず馬を狙う例も有るのかだが
08-29 13:20https://t.co/VkgN75Om4a >筑後の六郎は小笠原の七郎を弓手に並べて、聞こゆる御所造り菊銘の太刀にて、小笠原が胴中を斬り落さんとしけるが、討ち外して馬の頭を打ち落とす。その隙に退きにけり。 馬の首も人間の胴を切断出来る様な刀なら 馬の速度も利用すれば落とし得ると言う事なのかだが
08-29 13:28騎兵戦では相対速度は80km/h程度に成る例も有るだろうが 太い木曽馬の首を斬るのは 容易では無いと言う事なのかだが
08-29 13:44https://t.co/O2mdYTpVnn >相良三郎(相良長頼ながより)は、額を射抜かれて若党の肩に担がれながら歩きました。道に休んで矢を抜こうとしましたが、柄([矢柄]=[矢の幹])だけ抜けて根([鏃やじり])が残りました。わずかに五分(約1.5cm)ほど尻([矢尻]=[鏃])が見えていたので、
08-29 14:001.5cmしか鏃の後部が出ていないとすると https://t.co/w5tHgcss8i 並寸鏃でも 10cm程度は頭に刺さっていると言う事なのかだが
08-29 14:01>金箸([金バサミ])で引っ張りましたがやはり抜けませんでした。相良(長頼)は、「なんとしても早く抜け」と叫びました。弓の弦を鏃が曲った所に結び付けて、木の枝にかけて、跳ね木([物を抜き取るのに用いるてこのような木製の道具])を使って鏃を抜きました。
08-29 14:04雑兵物語に出て来る金箸だけでは無く 跳ね木も矢を抜くのに 利用されていたと言う事なのかだが
08-29 14:05https://t.co/RN6dX9OGf9 雑兵物語だと毛立て箸や釘抜きが 矢を抜くのに利用されている訳だろうか https://t.co/Q0Df4wFIH5
08-29 14:34https://t.co/lWCFe7MX69 >東山道・東海道の二手を一所に寄せ合せ、道中の兵士たちをも急ぎ集めたので、総勢二十八万騎になりました。 この兵力は実際は 2万程度と言う意見も多いが 元寇時には此れ以上の兵力が 東日本から動員出来たのかどうかだが
08-29 15:00幕府軍が2万程度とすると 京都軍が数千でも地形を利用して 他の兵の動員迄時間を稼げば 勝機や講話の可能性は無かったのかどうかだが
08-29 15:02https://t.co/sPDRKjdXZa >一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であった。 この6万が九州以外の 日本の全軍なのかどうかだが 東日本の兵はかなり残る可能性も有るのかだが
08-29 15:14https://t.co/Brba8jkaJu >弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した[1]。 6万と言うのは山陽・山陰の兵と言う事なのかだが 果たして此処迄は居たのかどうかだが
08-29 15:166000程度でも 夜襲での各個撃破をやる兵としては 海上・地上共に可成使えたのかどうかだが
08-29 15:19昼は地形を利用して出来る限り少数の兵力で敵を遅滞させ 夜は残りの兵を利用した夜襲で各個撃破と言う事を考えたのかどうかだが
08-29 15:36https://t.co/oPNP5DpPsu >関東の兵士たちは乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだ杭])の外を、馬に海を泳がせて通って行きました。 乱杭の無い海の深い所を 馬を泳がせて迂回等と言う例も有るのかだが
08-29 15:46https://t.co/cvR6lwQxs9 >中にも熊谷・久米・吉見父子五人、橋桁を渡りて寄せたりけり。奈良法師二重の掻楯に引き退く。 此れは垣盾を二重に並べただけでは無く 縦深の厚い兵が居たと言う事なのかだが
08-29 16:22https://t.co/V7owZtiRyR >「橋の上の軍を止めさせよ。このような様子だと日数が経つとも、勝負はつかない」と命じたので、橋に向かって「大将(北条泰時)の命令である」と叫びましたが、雨が降り、川音・打ち物([太刀])の音があちこちで鳴るので、聞こえませんでした。
08-29 16:49こうした状況でも 陣太鼓的な物が有れば撤退命令は出せるのかだが
08-29 16:50https://t.co/ZcJaZKSK9N >味方の軍兵が、今川に沈んでしまいましたが三千騎ほどです。 馬上用盾を持っていれば 濁流でも生存率は高まった可能性は有るのかだが
08-29 17:24https://t.co/HCnF2qg6xG こうした鎌倉期の馬上用盾は 数は有るのかどうかだが 馬も浮力は有るだろうから 此れに掴まれる状況なら捕まった方が早いのかどうかだが
08-29 17:32https://t.co/aKhjkEjWRQ >そのほかには青侍([身分の低い若侍])・町の冠者([若者])たち向かいつぶて([石合戦が得意な者])印地打ち([石合戦を得意とした無頼の徒])などという者たちでした。馬に乗って軍をしたこともない者たちが、ある者は勅命により借り出され、
08-29 18:02>ある者は軍見物に出てきた者たちでしたが、 向かいつぶては 兵士と言うかも知れぬが 印地打ちは兵では無いと言う事なのかだが
08-29 18:03RT @kamaeatte: 大坂冬の陣における徳川秀忠指揮下の軍勢の編成をみると、先手の伊達政宗(61万石)、上杉景勝(30万石)、佐竹義宣(20万石)の三名はそれぞれ一軍を形成しているが、他の五組は数千~数万石程度の中小領主を集めて一軍としており、数万石ほどの譜代大名が組頭…
08-29 18:32RT @kamaeatte: 第一組は組頭の酒井家次(5万石)以下14名、第二組は本多忠朝(5万石)以下10名、第三組は榊原康勝(10万石)以下9名、第四組は土井利勝(3万2千石)以下9名、第五組は酒井忠世(2万石)以下10名で、総石高はそれぞれ十数万~30万石ほどとなる(参考…
08-29 18:32RT @kamaeatte: それにしても本多忠朝組の植村泰勝(5千石)とか土井利勝組の由良貞繁(7千石)とか、こういう人たちはどのような編成で参戦するのだろう。一万石にも満たないと備を作ることもできないと思うのだが、本人とその馬廻での参戦なのか、それとも他の大名の備に混じるの…
08-29 18:32RT @kamaeatte: @pzkw42 小荷駄の警固の発想はなかったです。少なくとも、こういう領主が小部隊を率いて積極的に攻めかかったりはしないのではないかと想像しています。他にも文禄・慶長の役の陣立等にも数千石程度の領主の参戦があるので以前から気になっています。
08-29 18:32RT @pzkw42: @kamaeatte 兵種別編成が取られていたとすると家の大小は関係が無くなると思いますがどうなんでしょうね
08-29 18:32RT @kamaeatte: @pzkw42 鉄砲も鑓もある程度数が揃わないと戦力にならないでしょうから、一万石=300人くらいが戦術単位としての備の下限ではないかと思っています。
08-29 18:32https://t.co/o5lefNxPnR グスタフのスウェーデン式大隊だと 150人の中隊単位で動くと言う事だろうが 後の時代の部隊はどうなのかだが
08-29 18:33RT @pzkw42: @kamaeatte ちょっと考えにくいのですが、この場合の兵種別編成とは、小大名や旗本から足軽などを切り離して譜代大名などの統一指揮下に置くという意味です
08-29 18:56RT @pzkw42: @kamaeatte そうなると小大名自身や旗本は何もしないのか?(あるいは本陣に幕僚として詰める?)とか、そもそも大名から足軽などを切り離すことが出来るのか、という疑問も出てきますが…
08-29 18:56RT @pzkw42: @kamaeatte またそもそもドクトリンも統一されていないであろう各大名家の足軽たちを集めてもまともな戦闘力にならないし…
08-29 18:56長篠だと各大名の銃兵が 前方に皆抽出されたと有るが 陣地戦では無く野戦でそうした事は有るのかだが 槍兵の抽出は有るのかどうかだが
08-29 18:57https://t.co/Pj7eKZlnvS >信長は、 家康 陣所に高松山とて小高き山 御座侯に、取り上げられ、敵の働きを御覧じ、「 御下知次第 働くべき 」の旨、かねてより仰せ含められ、鉄砲 千挺ばかり、佐々蔵介 ・ 前田又左衛門 ・ 野々村三十郎 ( 野々村正成 ) ・ 福富平左衛門 ・
08-29 19:04>塙九郎左衛門 御奉行として、近々と足軽 懸けられ御覧じ侯。 此れは各大名の1000の鉄砲が 前方に抽出され配置されたと言う事なのかだが
08-29 19:05https://t.co/la6YoRooie >巳刻(10:00) より 午刻(12:00) まで乱れ合いて、叩き合っては退く、また負けじ劣らじと、かかっては叩き合い叩き合い、鎗下にて敵方討ち死: この叩き合いと言うのは 槍での打撃戦を意味する訳では 無いと言う事なのかだが
08-29 20:27>その時、與十郎 差したる熨斗付け、長さ一間(1.8m)、広さは 5,6寸(17cm) 侯ひつる由なり。 >ここでの「熨斗付け」というのは、長さ 1.8mもある巨大な太刀。 この大太刀の幅は17cm等は無いが 鞘の幅は有ると言う事なのかだが 秩父がかう平的な幅広の刀が入る可能性も有るのかだが
08-29 20:29https://t.co/ataPmAkyYy 秩父がかう平でさえ 幅は12cmだろうし 17cmと言うのは現実的な物なのかだが 鞘や尻鞘の幅の可能性も有るのかだが
08-29 20:33RT @Chinaswordbot: 【青龍偃月刀の変遷】明以前の青龍刀は金属鎧の隙間を突く必要から反りが小さく、細身の物が多い。その後火器の台頭、刺突に強い棉裏甲の普及等に伴って青龍刀は次第に斬撃に重点が置かれるようになり、反りの強い重厚な刀身形状へと変化して行った htt…
08-29 20:50明の大刀だと幅15cm等の物も有るだろうし 幅17cmと言うのも非現実的でも無いのかだが 斧なら更に幅の有る物も有るだろうか
08-29 20:51https://t.co/OU4DTJUpxo >この「赤塚の戦い」は、混戦(接近戦)で、両軍入り乱れて、火花を散らして戦った。敵味方、たった、4間(7.3m)、5間(9.1m)を隔てて、折り敷いて(片膝をついた姿勢で)数刻(2時間程度)の戦であった。
08-29 20:58こうした距離で矢を撃ち合ったが 銃は使用していないと言う事なのかだが 垣盾や袖で矢は可成り防護されていたのかだが
08-29 20:59>山口教吉は、上槍であった。その頃、「上槍」「下槍」という区別があった。 >説①(戦国未来説):昔は短槍だったので、剣術や棒術同様、槍術でも「上段の構え・中段の構え・下段の構え」があった。上槍は上段の構えで、下槍は下段の構えである。
08-29 21:04>『信長公記』に「其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり」(その頃は区別があったが、今はない)とありますから、自説(説①)が正しいと確信しています。 パイク的に上から 突き下ろす様な構えの可能性も有るのかだが パイク的な長い槍でもこれは可能と言う事だろうか
08-29 21:05上槍と言うのも こうした上から突き下ろす様な 構えと言う事なのかだが https://t.co/c7UlVT6R9x
08-29 21:39>「折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり」ということは、下槍の使い手(片膝付いて槍を使う者)の中で、上槍の使い手もいて、目立ったのではないでしょうか? 赤塚の戦いでは10m以内での射撃を警戒して 槍兵も立て膝で戦っていたと言う事なのかだが
08-29 21:48>降り立て(馬から降りての戦い)であったので、馬は皆、敵陣へ駆け入ってしまった。しかし、軍馬は、少しも違い無く(正確に)なく、返した。 従者が居る状況で 馬が勝手に駆け入るのかどうかだが 太平記の様に意図的に突撃させた可能性は有るのかだが
08-29 21:55>先陣の足軽衆は、荒川与十郎、荒川喜右術門、蜂屋般若介、長谷川橋介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎、賀藤助丞。 と有るから 騎兵だけで奇襲攻撃した訳では無いと言う事なのかだが
08-29 21:57
- [2020/08/30 04:08]
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