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2024.03

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09/03のツイートまとめ 

boukenkyuu

https://t.co/ZRhMDBzAZd >戚継光 「拳経捷要」(『紀効新書』第14巻) >拳法は大きな戦争の勝敗にはかかわりない技(わざ)のようである。しかし手足を動かして肢体を慣らし勤めることを初学の基本とする。これまた武芸のなかの一家をなすものである。
09-03 09:20

https://t.co/sPHEIeOhgS >ガチ甲冑合戦には約3mの槍を使用した。合戦では6-7割の確率で組討となると古人が伝えているが、実際にやってみるとそうである。約6割の確率で組討となり短刀でとどめを刺すこととなった。
09-03 09:25

一方で日本では6-7割は組討で決着と言う意見も有るが 隊列を組んだ集団戦での組討は危険と言う意見も有るが 乱戦に成った後はその限りでも無いと言う事かも知れぬが
09-03 09:28

戚継光の軍の場合は軽装甲の倭寇相手に組討での決着は余り無く 組討が有効な乱戦に成る前に敵を敗走させる様な戦術を重視していた可能性も有るのかだが とは言えリーチの短い藤牌兵は 武器を持った状態での組討を仕掛けられる例も多い可能性は有るのかだが
09-03 09:31

雑兵物語の下の組討は 槍勝負終了後と言う事なのかだが 槍の脇に配置される銃・弓兵や奉公人が敵の生き残った槍兵に攻撃された際 刀で此れに対抗しつつ組討を仕掛けたと言う事なのかだが https://t.co/ovCFEbtgGx
09-03 10:18

槍を持つ騎馬武者相手に組討等するのは弓・銃を使用する騎馬武者や 士鉄砲・士弓組と言う事なのかだが 持槍足軽相手でも弓・鉄砲足軽は組討で勝利出来るのかどうかだが
09-03 10:20

持槍足軽に対しては 弓足軽は弭槍のリーチ迄踏み込むのが精々と言う可能性も有るのかだが 槍を持つ騎馬武者相手には此れさえも同数では出来るのかだが
09-03 10:23

槍勝負に勝った槍兵が脇に配置されれる銃・弓兵・奉公人を攻撃する前に 銃・弓兵と奉公人同士の刀・弭槍を利用しての乱戦・組討が始まる例も有るのかどうかだが
09-03 10:25

島津軍の大太刀兵が戦闘序盤から龍造寺軍等の槍に斬り込んだ際には 双方が組討も利用していたと言う事なのかだが
09-03 10:43

藤牌兵やロデレロが 武器を持った儘片手を自由と出来る槍やハルバード・大太刀・モンタンテを持つ兵等に組討を仕掛けられてやられた例は多いのかどうかだが
09-03 10:46

ペルシャ的な紐で持つタイプの盾なら 持った儘組討も出来るだろうが 自由度は素手に比べてどうなのかだが トルコ軍の盾も同様の構造なのかだが 此れを持つイェニチェリ等がロデレロを組討で倒した例は有るのかどうかだが
09-03 11:07

https://t.co/eLIlDWbaUD トルコの盾もこうした形の紐で持つのかだが 持った儘組討は何処迄出来るのかだが
09-03 11:12

初公開!大珍品にして名刀!特別貴重刀剣 約700年前『切付銘:臥龍』鎌倉時代後期頃【手掻】ぴしっとおさまる名作朱塗り石目地鞘拵え付属 https://t.co/bUCZwThwHK 鎌倉期の刀としては妙に直線的だが 太刀では無く腰刀なのかだが
09-03 11:35

RT @kamaeatte: 木山弾正といえばこの戦いで加藤清正と一騎打ちしたことで有名だが、「清正記」によれば、弓を向けてきた弾正に対して清正が大将同士の戦いだから太刀打ちしよう、と槍を捨ててみせ、それを見た弾正が弓を捨てたところですぐさま槍を拾って「弾正が高股かけ投げ」谷底…
09-03 12:48

https://t.co/9DYSTjOFLt >志岐城を落とした行長・清正軍は、次に本渡城に総攻撃をし掛ける。十重二十重と囲まれもはや落城かと思われたときに、城門が開き甲冑に身を包んだ50騎余りの騎馬武者が躍り出た。
09-03 12:52

>当たるを幸いなぎ倒し、「我こそは木山弾正、清正は何処」と叫びながら敵陣深く攻め入った。死んだはずの弾正が現れた、と恐れおののく清正軍。この騎馬武者こそ誰あろう木山弾正の奥方お京の方だった。夫の鎧兜に身を固め、緑の黒髪を兜にしまい、お付の女性を始め、50騎全てが女性の武者だった
09-03 12:53

>憎っくき清正まで今一歩と迫った時、低く枝を伸ばした梅の木の枝に兜の錣を絡ませてしまった。兜が落ちるとお京の方の黒髪がバラリと落ち女性であることが分かってしまった。それまで恐れていた清正軍は女と分かると雑兵が寄ってたかって切りつける。
09-03 12:56

木山弾正の奥方お京の方が 清正軍に攻めて来たと言うのは事実なのかだが 本物の木山弾正と見て兵は警戒していたが そうで無いと判明しやられたと言う事なのかだが 枝が掛かる程度で兜は果たして落ちるのかどうかだが
09-03 13:01

日本の騎馬武者の馬が 一時間敵を追撃する事も有ったのかだが 立って馬を眠らせるのは疲労を回復させる為なのかだが 他国ではこうした事はしていたのかだが https://t.co/RO0H3Kxy8e
09-03 13:11

https://t.co/X6CosTnUyo >速歩(はやあし)=15km/時では連続1時間が限度、1日2回やって30km/日。  等と有るが 甲冑武者を乗せた場合は1時間は スタミナの有るモンゴル系馬でも保つのかどうかだが
09-03 13:19

>常歩(なみあし)=6km/時なら2時間歩いて30分休みを繰り返し、1日50~60km、調子がよければ80km程度進めます。この速度は毎日続けることができ、400kmを5日で行軍した例もあります。
09-03 13:21

此処迄遅い追撃を1時間していたのかだが 地形や敵に掛かって こうした速度以下迄遅くなっていた時間も多いのかだが
09-03 13:22

敵の逃げる騎兵には追い付けないとして無視し 歩兵を長時間乗馬追撃していたなら 殆ど6km/h程度しか出ていない可能性も有るのかだが
09-03 13:24

雑兵物語だと鉄砲足軽が兜を持つ敵に斬り込んでいるが 騎馬武者では無く士鉄砲或いは士弓組の者相手なのかだが 兜を装備している足軽相手の可能性も有るのかだが https://t.co/VRGq672Fxf
09-03 13:39

RT @TOMO461315: 兜を脱ぐのも一苦労これ以上腕を曲げると肩上の鞐から紙紐がちぎれる https://t.co/AQqHWXJF06
09-03 13:49

https://t.co/6YehCEPWZr サイズが合っていれば日本式や西欧式の籠手の腕は 特段問題無く上がると言う事なのかだが
09-03 13:50

https://t.co/PIdkHpqDni ギャンべゾンは肘の動きは余り阻害しないが 西欧的な南蛮鎖の総鎖や板金は動きを制限すると言う事なのかだが この程度なら戦闘には影響しないと言う意見も有るが 何処迄組討を試しているのかだが
09-03 15:01

日本の籠手の家地はギャンベゾン程の厚みは無いし 肘部の部分的な格子鎖も西欧的な鎖程動作は恐らく制限しないだろうか
09-03 15:01

村上海賊の娘に討ち取った者の耳を多数付けている本願寺の僧兵が出て来るが こうした例は現実に有るのかだが 雑兵物語には鼻を糸に多数通している例が有るが 髭の付いた鼻が付けられると言う事なのかだが 髭の無い男の鼻と言うのは 討ち取った証拠とはされるのかだが https://t.co/UOHsdII5dW
09-03 15:40

https://t.co/bvbAGNR8Nk>すかさず、清正は槍を拾い上げて突いてかかった。「たばかるとは卑怯な!」と弾正は怒ってののしったが、清正の槍法は鋭く、高股(たかもち)をかけおとし、槍玉にかけてはね上げ、谷底にはね落したので、弾正は絶息した。
09-03 16:47

木山弾正は股に槍を掛けられた後跳ね上げられ 谷に落とされてやられたと言う事なのかだが
09-03 16:50

当世具足の揺糸部分も具足下・袴と佩楯の家地が有り 部分的に帯・揺糸も掛かるなら 薄いギャンベゾン程度の防御力は有るのかだが 腰鎖が有る場合はこれに家地と鎖が加わるが 刀では簡単に貫通はしないだろうが 槍ではやられていたと言う事だろうか
09-03 18:40

https://t.co/XGiAPwomSC >19歳のとき、甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。  水野勝成が甲州黒駒合戦で300の首級を挙げたと有るが 略奪中の奇襲だっただろうし 混乱の中で一人ずつ首を取って行ったのかだが この際は300の鼻等は持っていたのかだが
09-03 20:31

https://t.co/ackG3SY0XI >『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた兵書)巻六「士鑑・軍役」の項にも、「いそがしくて首をもたれざる時、鼻をかくもの」とし、童・女と区別がつくよう(性別がわかるよう)にヒゲが生えている(鼻下から)唇までを切るようにと、同様のことが記述されている。
09-03 20:47

訓閲集にも雑兵物語同様に 髭を付けて鼻を切ると言う事が書かれるが 髭の無い男の鼻でも 髭を剃った跡が識別出来るなら 戦果とされると言う事なのかだが 耳はそうした識別が無理なら 首の代用とはされたのかだが
09-03 20:50

>秦の始皇帝がこの刑を好み、各国の捕虜に対しこの刑を行ったために鼻の有る者のほうが珍しいとされる町が存在したほどであると始皇帝の子の教育係であった趙高が伝えたとされる。   モンゴル軍も同様の事をしたのか 或いは戦奴化される者の方が多かった可能性も有るのかだが
09-03 20:56

揺糸部分が家地と成っている具足も有るが 戦国期には有るのかどうかだが
09-03 21:42

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