11/17のツイートまとめ
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boukenkyuu
https://t.co/spiHwNHG1A>平右衛門は太刀打ちの手利きであったので「心得たり」と刀を抜き、(討ち手の侍共が)七本突き懸けてきた槍を一つに絡め、足にて踏みつけようとしたのだが、踏んだ瞬間に滑ってしまい倒れたところを討ち留められたと言う事である。
11-17 08:29槍を踏み付けて拘束と言うのも 漫画等では良く有るが 現実には何処迄使われたのかだが 西欧でパイク等を踏み付ける技は有るのかどうかだが
11-17 08:31>討ち手の槍に砂載っかってんのに、武器抑え込むために力いっぱい踏んずけちまったせいで足の裏滑ったんだろな…なんかまた容易に想像できるのが悲しい(泣) 伊東平右衛門が滑ったのは こうした理由でなのかだが
11-17 08:35https://t.co/nKnDNQbn6K >井上忠兵衛という者「心得たり!」と言うままに、鉄砲を木に持たせて(いろいろ解釈できるが、「木の枝(または柵)に載せて」が妥当かなぁ?)十匁玉を打ち放てば、狙いに違わず(原文:過ぎたず)渋江の胸中に中(あた)り、馬より真っ逆さまに落ちたのを、
11-17 08:47此れは狭間筒を西欧のマスケット銃の様に 又杖に乗せて野戦で射撃している可能性も有るだろうが 短い10匁士筒を乗せている可能性も有るのかだが 銃眼の有る或いは無い垣盾に 此れを乗せる事も有ったのかだが
11-17 08:49https://t.co/t4hAlbo6lw 左の様に狭間筒を奉公人等が前で支えて 射撃する例は現実に有るのかだが
11-17 09:00https://t.co/uDvDyKNdFj https://t.co/VFuif9lEK8 狭間筒の左の様な台座は現実に利用されたのかだが 馬防柵に乗せて使われた例は有るのかだが
11-17 09:04https://t.co/NRXCC2ACBh >このようなところに富岡藤太郎が取ってかえし二つ玉の鉄砲にてねらい打ちに打ったところ、世上坊の高もも(大腿)を打ち抜き馬から下へ「どう」と落ちる。 威力が低下するかも知れぬ2つ玉でも 佩楯程度は貫通すると言う事なのかだが
11-17 09:10https://t.co/NRXCC2ACBh>この攻撃の際,国友藤太郎なる者が多田幸治山付近で藤吉郎を狙撃したのですが,狙撃は不首尾に終わり,後に藤吉郎は狙撃した者を調べて召し抱えようとしたそうです.藤太郎も最初は固辞しましたが,1573年に浅井氏が滅亡すると,主家との義理を果たしたと考えたのか,
11-17 09:12>長浜城主となった木下藤吉郎に仕え,藤吉郎は国友藤太郎に100石の知行を与えた上に,国友の代官職を命じ,鉄炮管理の為に統制を厳にして,国友鍛冶を完全に支配下に納めることになりました. 信長と違い調略重視の秀吉であるから こうした事を行ったと言う事なのかだが
11-17 09:13
https://t.co/7LLCOsQHNE >坂(板) 太郎兵衛(ばん(はん?さか?) たろうべえ)「三十目玉の大鉄砲を軽々と持ち出でて、片倉勢の前衛を三人撃ち落とす」 此れは野戦での利用の可能性も有るのかだが
11-17 09:26>そうする間に伊達勢の三手に成って、一手は湖水の方へ押し(寄せ)て来る。一手は萬代山の方へ打ち向かう。中の手は摺上の上を遥かに隔てて旗を押し立てたれば、左右の敵味方寄せ合わせ鉄砲軍(鉄砲での撃ち合い)を始めた 30匁筒も野戦で使用されている様に見えるが 100m等で放ったのかだが
11-17 09:30>米沢藩の三十匁筒 全長94cmちょいw重さ16㎏ 30匁筒も16kgなら人数を掛けて運搬すれば 野戦での機動性も可也保てるのかだが 此れ以上の物が野戦で利用された例は有るのかだが
11-17 09:33https://t.co/BGyDcBMglm >三星の(刀を)腰に差している武者の左の脇坪(脇の下)を突き、その槍を抜く間も立たぬうちに、大勢に突き伏せられて首を取られてしまった。 雑兵物語では槍や刀で脇を狙う記述が無かったが そうした例も有ると言う事なのかだが
11-17 09:37https://t.co/BGyDcC3RcU >御旗本衆の鉄砲の上手鈴木太郎右衛門、従弟の六郎右衛門、泉田将監、弟左近、須田源蔵を初として三十余人勝(すぐ)って、一人に鉄砲三丁四丁づつ、玉薬をつく者を相添えて渡し、一陣に向かう敵を待ち受けて居た。 こうした装填手は 奉公人なのかどうかだが
11-17 09:51https://t.co/INqjoXCN0T >南部信直(なんぶ のぶなお) 「郎党に先んじて一揆の大将と目される者を狙撃する」「九戸実親を狙撃する」等々 >どの軍記にも銃の腕前が出ているので 南部信直も黒田長政同様 銃の名手だったのかだが
11-17 10:45https://t.co/VynDRd9tKM 18世紀なら般若の総面も有る様だが 戦国期でも牙の生えた獅子口総面は有るが 鬼系の面頬は有るのかだが
11-17 11:35ベネズエラ戦で見えた森保ジャパンの骨格。シュミットと冨安という新たな武器 https://t.co/OHDn43tv2r 日本代表の最大の弱点であるGKとCBが遂に補強されつつ有るのかだが CFは次に弱い所では有るが 人材は何処迄居るのかだが
11-17 13:17https://t.co/BtsRbQmNu1 左のペルーの首飾りは エジプトの物に妙に似ているが 米大陸に移動出来る古代エジプトの大型船は 多数有ったと言う意見も有るだろうか
11-17 13:51https://t.co/vt79NwszuZ >鉄砲はまだ東国において稀で、今日も以上八丁の外は用意出来なかった。ここに根来法師大蔵坊、鉄砲の上手である(者)が、真っ先に進んでいた岡見弾正の胸板を打ち抜けば、 1569年の常陸国でも銃は可也少ないのかだが 士鉄砲組以外の利用は無いと言う事なのかだが
11-17 14:18https://t.co/FEppBleihW 九州の立花道雪は1569年に800丁の銃を運用し 早合迄使用しているが 士鉄砲の比率が依然多いのかだが
11-17 14:21https://t.co/0I0iHZhAQM >寛永10年(1633)に記された『国友鉄炮記』によれば、一巴は天文18年(1549)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。
11-17 14:23>この鉄砲500挺というものは、当時としては桁外れの挺数だったといわれてもいる。 此れは寛永期の記述だろうが 果たして事実なのかどうかだが
11-17 14:25https://t.co/jm40bb2knq >弓・鉄砲隊500挺を持たせ、 >弓・鉄砲隊500挺のうち、鉄砲(火縄銃:種子島)をどのくらい持っていたかは不明ですが(弓も鉄砲も500挺ずつとも考えられる)、 此れは信長公記の記述だろうが 1553年に銃は500有ったのかどうかだが
11-17 14:30姉川では信長軍の火縄銃は長篠と同程度の1500以上は無いと言う事なのかだが 数が少なく共士鉄砲組の銃が多いなら精度は高く 古い戦いでも指揮官がそれなりに狙撃されていると言う事だろうか
11-17 14:40https://t.co/vt79NwaY6p >この戦いでは配下の根来法師大蔵坊に岡見治資を鉄砲で狙撃させたと伝えられており、 東国でも1569年には武将が狙撃されているし 下位の指揮官も可也狙撃されていた可能性も有るのかだが
11-17 14:41当時の欧の銃より数が少ないとしても士鉄砲組の銃は長射程・高精度であり 足軽の銃でさえも75mしか事実上射程の無い西欧のマスケット銃よりは使えると言う事なのかだが
11-17 14:43https://t.co/WemUD4Cfi2 >蒲生源右衛門は島の部分を撃つよう伝えた。島とは傘の要で、柄と骨とが合わさる部分を指す。工藤業綱は約百間の距離から傘の島を撃ち抜き、 100間(181m)から 銃眼を狙撃する等は果たして出来るのかだが
11-17 14:51https://t.co/WemUD4Cfi2 >「祐清私記」によると、天正二十年正月十二日夜、南部信直が岩谷観音に参拝すると、それを狙撃しようと待ち伏せする。南部家臣唐式部は咄嗟に機転を利かせ、灯りを南部信直から遠ざけた。工藤業綱の放った弾は灯りを撃ち、狙撃に失敗した。
11-17 14:59>工藤業綱は捕縛されたが、南部信直は鉄炮の技量を見込み、二百石を与えて召し抱えた。南部家では足軽頭を務めた。他に九戸家遺臣約二十名が南部家に召し抱えられたと云う。 此れは南部信直が銃の名手だったから 銃手の価値を高く評価していたと言う故も有るのかだが
11-17 15:00https://t.co/7LLCOsQHNE >会津勢は山々に(生える)諸木を盾にしていた故か、敵の弓鉄砲に中らず、手負い討ち死にはなし。 立花宗茂も矢を防ぐ為に 木を利用した事が有るだろうが 漫画等だとこうした場所に籠もっても周囲の木が燃やされて逃げ場が無くなり やられると言う様な例も有るだろうか
11-17 15:17https://t.co/86wKpLssNk 左のトルコ軍の訓練では 直剣的な棒が使われると言う事なら シミターの湾曲を利用して防御を迂回する突き等は 一般的には考慮は無いのかどうかだが
11-17 16:41上級者は刃引きした実剣等を使って そうした防御を迂回する突きの練習もしていた可能性は有るのかだが
11-17 16:42https://t.co/VLZVFtyy2o >丹後守重継 >天文二十一年八月、信濃国苅屋原城攻めのとき、はじめて竹束を作り、これを攻め、遂に其の城を乗っ取る。 1552年に既に 竹束が考案されていると言う事なのかだが
11-17 17:06銃眼が付いた車竹束や鉄盾は有るが 銃眼の有る垣盾も何処かで見たかも知れぬが 果たして有るのかどうかだが
11-17 17:27https://t.co/DBEnD39O0u >これは「掻盾」とか「垣盾」とか呼ばれるもので、合戦で鉄砲の使用が主流になると、このように鉄砲の筒先を出すための「鉄砲狭間」が孔けられた物も登場したようです。 こうした物は何処迄 使用されたのかだが
11-17 17:41https://t.co/gXg10B49Hj 戦国期にこうした小型の手盾は有るのかどうかだが 長物と併用される例も有るのかだが
11-17 17:52https://t.co/kRTNVrqUAL この盾を持って剣を限定的にも握れるなら 手甲鈎・鉄拳・ジャマダハルを1つは装備しても剣は握れる可能性も有るだろうが 組討に問題は生じる可能性も有るのかだが
11-17 18:03https://t.co/7JdK0cHEdt >騎馬武者は母衣を前にたらし矢を防ぎ、板の楯も使用した様子。 馬の首上部に盾が有る様にも見えるが 馬の首に固定される物なのかだが
11-17 18:22母衣に盾が付いていると言う可能性も有るだろうが 戦国期にこうした物が果たして利用されたのかだが
11-17 18:23西欧兜の影響を受けたかも知れぬ 桃型兜が登場した1550年代に 九州等では西欧の海戦甲冑を模した 南蛮胴的な物も有るのかだが 桃型兜もバーゴネットの完全なコピーでは無いだろうし 板金鎧には余り似ていない物に成っている可能性も有るのかだが 単純に板金鎧を改造した物も有るのかだが
11-17 20:40士鉄砲組なら銃で垣盾が貫通しても 鎧で弾いた場合或いは 鎧及び他の場所を貫通してもダメージが小さい場合は士気に影響は余り与えないかも知れぬが 足軽の場合はそうは行かないと言う事なのかだが
11-17 21:49士弓組も士鉄砲組同様の士気は有ると言う事かも知れぬし 一部の野心の有る足軽や奉公人等も 多少負傷しても士気は下がらない可能性も有るのかだが
11-17 22:22https://t.co/RPsjY5IMuE 士鉄砲・士弓組は白兵戦は余り考慮せず 装甲を厚くしている可能性も有ると書いたが 橋本一巴・林弥七郎の弓と銃の勝負では 低威力かも知れぬ2つ玉でさえ 胴が貫通しているのかだが 命中後抵抗しているから 余りダメージは受けていない可能性さえ有るのかだが
11-17 22:27弥七郎の矢は脇の装甲の無い部分を 貫通していたと言う事なのかだが
11-17 22:28西欧甲冑を着ていれば弓で脇の鎖は貫通出来ず 橋本一巴が勝利していた可能性が高いのかどうかだが トルコ的な鎖主体の鎧でも同様と言う事だろうか
11-17 22:35西欧甲冑やトルコ的な鎖が無く共 脇を完全に埋められる様な鎖帷子や満智羅を装備していれば 橋本一巴は助かった可能性も有るのかだが 士鉄砲・士弓組にこうした物の装備率は高かったのかだが
11-17 22:401550年台では精々 関東五枚胴的な物が有る程度なのかだが
11-17 23:17
- [2018/11/18 04:07]
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