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2019.09

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08/29のツイートまとめ 

boukenkyuu

https://t.co/mpwOrtiyMu イェニチェリ兵もほぼ銃兵・弓兵だけならこうした白兵戦は余りせず 杭を利用した射撃戦が大半だったと言う可能性も有るのかだが 攻城戦では白兵戦も多いのかだが 重騎兵の下馬戦闘の方が多いのかだが
08-29 10:40

https://t.co/lbNkPKMvSD >アルゴンキン語族と呼ばれる北東部のインディアンたちは、一般的に弓を射る際に邪魔にならないよう、頭の両側を剃りあげていた。  トルコ人やモンゴル人・満州族等の髪型も似ているし 此れも弓の操作と関連が有るのかだが
08-29 11:00

https://t.co/pL2CKNFm8P そうした髪型は兜を装備した時の熱対策と言う意見も有るが 日本の様に上を剃っていないから 弓の利用が関係している可能性も有るのかだが
08-29 11:05

https://t.co/SZgmS48IfS >かくて金の太宗は1129年に、始めてその領内の漢人に対して、胡服・辮髪の令を下しました。  蒙古襲来絵詞で髪を剃っている元軍の兵が居るが モンゴル人では無く辮髪とされた漢人や女真人の可能性も有るのかだが
08-29 11:12

>彼らは辮髮を強制しなかったようですが、朝鮮でもペルシアでも、蒙古人の直間接の支配を受けた地方では、一律に辮髮が流行したようです。西暦十三世紀の頃に、ペルシア地方ではキリスト教徒、イスラム教徒を問はず、多くの者が辮髮をしていたとされます。
08-29 11:15

>朝鮮の忠烈王は、元の世祖の娘を娶ったこともあり、1278年、朝鮮国内に辮髮の令を下しました。(『高麗史』卷七十二輿服志)   1274年の文永の役では朝鮮兵は未だ辮髪では無いと言う事なのかだが 弘安の役では辮髪と言う事なのかだが
08-29 11:17

https://t.co/O37jXUclMP 蒙古襲来絵詞の弘安の役の部分では 女真族では無くモンゴル式の辮髪をしている者が書かれるが 旧南宋兵は未だこうした辮髪は無いかも知れぬし 高麗兵或いはモンゴル兵と言う事なのかだが 満州人や北宋の漢人はモンゴル式辮髪は無いと言う事なのかだが
08-29 11:30

https://t.co/GI4p8VweH8 蒙古襲来絵詞の弘安の役の部分は東路軍との戦闘を書いた物だろうし 東路軍は高麗兵も居ただろうから 彼等或いはモンゴル兵がモンゴル式辮髪で書かれているのかだが
08-29 11:36

https://t.co/EO2UpgmBKl 左の場面ではモンゴル式辮髪で無い髪型の者も居る様に見えるが 満州人或いは漢人の可能性も有るのかだが
08-29 11:41

船を漕いでいるモンゴル式辮髪の者は 高麗兵と言う事なのかだが 他はモンゴル兵の可能性も有るのかだが
08-29 11:43

三角槍 『うぶ無銘』 戦国時代 うぶ外装入り 全長約111cm 刀身入り ピッタリ収まります! 真剣 登録証付き https://t.co/xbpfSKYMPW  こうした石突が無い様な槍と言うのは戦国期に有るのかだが 長柄槍では有るのかどうかだが 西欧のハルバードやポールアームは石突が無い例が多いだろうか
08-29 12:29

日本の柄の場合は竹と木の複合式であるから 石突を装備しないと突いた際に分解する危険も有るのかだが
08-29 12:31

日本の槍の場合柄が損傷したとしても 損傷した竹や木の部分だけを外して修理されていたと言う可能性も有るのかだが
08-29 12:33

モンゴルの辮髪は横を剃っていないから 弓の利用とは関連は恐らく無いだろうし 兜のシコロの方が髪より広がるだろうから 満州人の辮髪も弓の利用とは関連が無い可能性も有るのかだが
08-29 13:16

https://t.co/kyGt2l6R45 左の阿部正勝の陣羽織と言うのは 1600年迄の物なのかだが 下は余り開いては無いだろうか
08-29 14:23

https://t.co/ecvK8SsHfR トルコ兵には山鳥の羽根の様な飾りが有るが 何の羽根なのかだが
08-29 14:42

https://t.co/dXLlGuTUCs 欧にも居るコウライキジの尾が使われている可能性は 有るのかどうかだが
08-29 14:47

https://t.co/oVysLOpjz7 左のハンガリー兵の服の肩部は https://t.co/fCIADo0oR5 左のイェニチェリ兵の影響なのかだが 西欧ではこうした物は無いと言う事なのかだが
08-29 15:25

https://t.co/P7kIPKJ4PD ワラキア公国兵の帽子にも コウライキジの尾の様な羽根が有るが トルコが利用している羽根と同じ物ななのかだが
08-29 15:38

https://t.co/7gbe5VDuY9 左のオスマン軽騎兵デリ或いは https://t.co/cNEVXm2RUb ゲリラ或いは野盗であるハイドゥクは頭に直接羽根が刺さっている様にも見えるが 矢も皮膚に穴を開けて付けているのかだが
08-29 15:44

トルコのハイドゥクはハンガリー人傭兵だろうが ポーランドにもそうした物を真似た兵は居るが 皮膚に穴を開けて矢や剣を通していた様な者は居たのかだが
08-29 15:52

>ポーランド・リトアニア共和国のハイドゥク >彼らの主力の武器は小さな口径の銃といった小火器で、火縄銃であった。接近戦用に彼らは、重くて多様なサーベルを運び、敵のパイクやポールウェポンの先端を切り落とすことができた。   イェニチェリ兵の剣はこうした事は考慮していたのかどうかだが
08-29 15:54

https://t.co/cvhvwwbGjk  >アキンジは弓の他に剣、槍、盾、戦斧を装備しており、白兵戦の能力も高かった。1493年のクルバヴァの戦いでは、重騎兵や歩兵の支援を受けずアキンジのみでクロアチア軍を壊滅させた。
08-29 16:06

デリも同様の戦闘力が有る可能性も有るだろうが 弱い者なら単独でも壊滅させられるのかも知れぬが 強い相手には矢を放った後偽装退却が基本なのかだが
08-29 16:07

>一般にアキンジは、敵に衝撃を与え困惑させるため、色彩豊かで奇抜な装いをした。背には鷹のような羽を負い(これは後のポーランドにおけるフサリア騎兵に似ている)、牛の角を付けた兜をかぶり、ヒョウ革のコートを羽織った。
08-29 16:13

フサリアの羽根と豹のマントは アキンジの模倣と言う事なのかだが アキンジの牛の角の付いた兜と言うのは 今の所見ないが
08-29 16:14

https://t.co/wBe1PKI2ds 左のアキンジにはポーランドのコンツェシュの様な長い直剣が有るし ポーランドが此れを模したと言う事なのかだが
08-29 16:22

https://t.co/PZcmLKhvxC >総長は自ら危険を顧みずに戦闘に加わり首都を救った。総長は『彼の存在は奇跡として作用し、脅威を与える立場にいた。手には剣を持ち、オスマン軍が退却するまで最も危険な場所に身をおいていた。』という状態にあった[19]。
08-29 17:59

1565年のマルタ包囲戦時 マルタ騎士団総長ジャン・ド・ヴァレットは70歳前後だろうが 何処迄白兵戦をしていたのかだが ハーフアーマーや3/4鎧は装備していたのかだが
08-29 18:01

https://t.co/zFAJADdkkw ジャン・ド・ヴァレットの鎧は残るが 胸甲と面頬だけと言う事なのかだが
08-29 18:10

>マルタ騎士団は騎士・兵士の5/6、住民7,000人強を失った。  騎士・兵士は3000-5000だが ほぼ全滅していたと言う事なのかだが 援軍が無ければ確実に敗北していたと言う事だろうか
08-29 18:35

https://t.co/pfqo8pdYor 1565年のイタリア式要塞は砲撃ではほぼやられていない可能性も有るだろうから 坑道や城壁から兵を侵入されてやられていたのかだが 城壁が爆破された例は有るのかだが
08-29 18:40

>オスマン軍は、全体の一部にあたる65台の攻城用大砲で、ビルグとセングレアを環状に囲み、長時間持続した砲撃で首都を服従させた。首都の堡塁が広範囲に破壊されたことで、ムスタファは8月7日に第三次総攻撃を命じた。
08-29 18:51

ヴォーバン以前に堡塁が砲撃で破壊出来るのかと言う事は有るだろうし 市街地への砲撃で士気が低下したと見た後に 砲撃中に作成していた坑道等から突入したと言う可能性も有るのかだが
08-29 18:53

>包囲戦の只中にあったある箇所では、外から侵入しようとオスマン側が掘った坑道が通じたせいで、防護壁を開け放っていた。  トルコ軍も殆どこうした坑道から侵入したと言う可能性も有るだろうが 城壁が爆破された例は有るのかだが
08-29 18:55

>オスマン勢は最初にマンタの助けで進み、小さな攻城兵器を盾で覆い隠し、全面を茶色に塗った攻城塔を使った。どちらのケースでも、マルタ側の工兵が地下道を掘り、岩石の欠片を至る所にバラまき、連続した一斉砲撃によって敵の建設物を破壊した。
08-29 19:05

イタリア式要塞に対しても攻城塔が使われる絵は有るが 銃砲撃で可成りダメージは受けていたのかだが マルタ側は坑道から外に出石を撒いて攻城塔の前進を阻んでいたと言う事なのかだが
08-29 19:08

https://t.co/1fcmnHLiuZ >城壁に対する砲撃は芳しい効果が出なかったため、城壁の下に向けてトンネルが掘り進められ、9月4日には2つの坑道で火薬を爆発させ、イングランド砦の防壁を11mにわたって崩落させた。ただちに歩兵がこの地点から強襲をかけ、イングランド砦は一旦占領された。
08-29 19:20

1522年のロドス島包囲戦ではイタリア式要塞の城壁を坑道を利用しトルコ軍は爆破しているから マルタでも同様の事が行われた可能性が高いのかだが
08-29 19:21

ロドスでは聖ヨハネ騎士団・ヴェネツィアの6700の兵の内 5000人が戦死しているから マルタとほぼ同様の状況に成っていたと言う事だろうか トルコ軍は50000等やられた説も有るが 城壁爆破後の突入が主体なら 其処迄は無いと言う事なのかだが
08-29 19:38

1522年なら騎士はフルプレート装備だろうが 騎士を狭い通路等に疲労を考慮して数隊に分け入れ替えつつ戦ったとしても 50000も損害を出させる事は困難と言う事なのかだが
08-29 19:44

ロドス包囲戦時のヴェネツィア兵はイタリア式甲冑装備 聖ヨハネ騎士もドイツ系の者以外はイタリア式鎧装備で マクシミリアン鎧装備の物は極少数と言う事なのかだが
08-29 19:48

騎士を数隊に分けたとしても10万のトルコ軍の物量を考慮すれば疲労は蓄積する危険も有り 負傷は蓄積して行くとすれば 50000等の損害を出させるのは困難と言う事なのかだが
08-29 19:53

マルタ包囲戦もトルコ軍の兵力が2-5万等では無く ロドスの様に10万居れば 援軍到着前にマルタ騎士団は 壊滅していたと言う事かも知れぬが
08-29 21:46

マルタ騎士団も1565年では 下馬して剣が使える騎兵は何処迄居たのかだが パイク歩兵やハルバード歩兵が 近接戦では主に戦っていたのかだが
08-29 22:39

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